|
![]() |
4月 7日
|
表現されたものには、その作者の人間性が隠しようもなく表れます。鑑賞する側にとっては、そのことこそが、絵画や書や彫刻、映像などが
「芸術」として他の活動と分けて受け止められる理由なのではないでしょうか。
だから真剣に表現活動に取り組もうとする人には、それまでの人生において自分自身と素直に向き合って生きてきたかどうか試されます。
自分の良い部分を肯定的に捉えつつ、また自分の嫌な面にも目をそむけず、コツコツと改善を試みてきた人にとっては、
いざ表現活動に足を踏み入れても、今まで生きてきたのと同じスタンスで取り組め、その肩肘張らない素朴な良さが素直に出ます。
しかし、人は誰でも、多かれ少なかれ自分の嫌な部分を隠したいので、何らかの飾りをまとっています。
絵などの表現活動をすると、この虚飾の部分もまた絵にでてしまうのですが、自分の描いた絵によってこの事実を突きつけられたとき、
人によっては、かなりショックを受け、しばしば表現を続けられるか否かの大きな別れ道に立つことになります。
これをどこからか借りてきた何らかの技法・技術、または発想の移植などによって、表面的に覆い隠そうとし続けるか、
「今の自分の現状はこうだけど、これから改善していくつもり!」と(未来に伸びるために)今の自分をそのままさらけ出すことで、
己の課題を明確にする意味を大切にできるか、というこの道の選択の行き先によって、その後の展開は大きく異なると思います。
しかしどちらの道を歩むか、こればかりは結局当人が決断するしかないことだと思います。
映画監督、アンドレイ・タルコフスキーは著書のなかで次のように言っています。
『芸術家に唯一可能なのは、素材との一騎打ちにおいて、観客に自分の誠実さと真摯さとを伝えることだけである。
観客はこうしたわれわれの努力の意味を評価し、把握するのである。
観客に気に入られようとして、観客の趣味を無批判に取り入れることは、観客を敬っていない証拠である。
彼らは、単に観客からお金を取りたいだけなのであり、すぐれた芸術作品で観客を育てるのではなく、
自分の収入を保証できるようにしたいだけなのだ。
このような時、観客のほうも、すっかり満足しきって自分が正しいと考え続けてしまう。
正しいというのは、しばしばきわめて相対的なものである。
そしてわれわれ芸術家の方は、芸術家の判断にたいして、批判的な態度をとることのできる観客を育てることに失敗し、
そのことで結局、観客にたいして完全な無関心を示すようになるのである。』
(「映像のポエジア 第6章 作家は観客を探求する」より)